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ぷらさん亭

Author:ぷらさん亭
バリ島で娘一人、息子一人、旦那とその両親+犬、アヒル、うさぎ、鶏と一緒に暮らしています。
獅子座・A型

UBUDで宿を始めました。
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バリ今昔~その4~いわゆる、不思議体験③

 夢の話が続きますが、これらの出来事が私の中では、バリ島生活を決定づける大きな出来事だったので、もう少しお付き合いくださいませ。

 流産から二年、バリのこてこての田舎の村社会の中で、「早くお世継ぎを」的なプレッシャーの中、私は(主人は無視かw)、計画的妊娠を目論みました。数うちゃ当たる的にやっていても、疲れるだけ(笑)ここは効率よくいかねば。と、徹底的に体温測定をして、自分の日々の体調をつぶさにグラフにして可視化したのです。その努力のおかげで、めでたく二度目の妊娠。

 今度は流産にならないように、用心して用心して、私は大手を振ってとことん好きなように妊婦生活を送らせてもらいました。バリでは、妊婦さんも臨月まで働くし、重いものやなんか平気で持つし、どっちかというと早産気味でぽこんと赤ちゃんを産み落とします。いや、バリ人でも今の若者は現代っ子ですので、妊婦さんは大事に大事に甘やかされていますが、私が妊娠した当時は、皆さん、普通にガンガン動いていらっしゃいました。バリ人ってほんとに丈夫。と感心したものです。まあ、皆様、ほぼ、20台前半の若いうちに妊娠出産ですから、元気なのでしょうか。

 おもしろいジンクスで、妊娠中に炭酸飲料を飲んだら流産する!と厳しく禁止されていたのを思い出しました(笑)バリの女性は、タバコやアルコール、炭酸飲料などの刺激物(なのかしら?)は、すべて妊娠出産に悪影響を及ぼす!というのが大前提で、絶対に手を出しません。それくらい、結婚・妊娠・出産・跡取り男子出産はバリ人の人生においてデフォルトでマストなのです。

 ともかく、楽しく妊婦ライフを満喫しておりましたが、長めの悪阻期間がようやく終わり、お腹がぐぐ~んとせり出してきた頃に、見た夢。
 それは、赤ちゃんの夢でした。目を固くつぶって、ひたすら眠っている赤ちゃんの顔や姿かたちを、自分があやしながら見ている夢だったのですが、まるでコンパスで描いたような真ん丸の顔と体のその姿がとってもはっきりと印象に残っていたので、覚えている赤ちゃんの絵を描いて(ワタクシ、実は絵が得意)、「こんなん入ってるで(お腹の中に)」と主人に見せたのです。その時は、「そうかそうか~こんな赤ちゃんが出てくるのか」と言っていたのですが、いざ出てきたら、ほんとにその時に絵に描いた通りの真ん丸な赤子が出てきたのでした(笑)これには旦那も大笑いで、その時描いた絵を引っ張り出しては笑っておりました。
 あの時は、本当にリアルに赤ちゃんの映像を夢に見たので(絵に描けるくらい)、「えらいまん丸い赤ちゃんやなあ」というのが印象に残ったのです。

 思えば、自分の身体や、父親の病気など、本当に身近な事象に関してだけこういうはっきりとした夢を見るのです。それもバリでだけ。

 バリでは、圧倒的な自然の中で生活しており、日本で暮らすのとは比べ物にならない位、サバイバルな生活です。そういう中で、自分の身体的な能力が、どんどん呼び覚まされるのか、自分の身に起こること、のなんらかの予知というか、そういう感覚が鋭くなってくる気がします。
 自分の手で食べ物を確保して、とにかく生き延びる、という本能的な部分が、こういう場所に住んで初めて発動されたというか。
 それは、本来、動物である私たちすべてに備わっている能力であったはずが、人間の知恵の産物・便利な道具の力によって、その能力がどんどん退化していっているのではないかと。
 
 ですから、私は、遠く離れて暮らしている父や、娘や息子、自分の危険だけは、きっと夢で察知するんだろうなという妙な確信があるのです(笑)察知してもそれを防げるか、というとそうではないのかもしれませんが・・・

 あれ以来、鮮明に覚えているほどの啓示的な夢は見ていません。
また見ることがあるのか、あれで終わりなのか。
 
 でも、自分の生物としての本能、能力に、もっと敬意を払い、注意深く見て行こう、という気持ちは、あれ以来持ち続けているのです。
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バリ今昔~その3~いわゆる、不思議体験②

 初めてのバリ島旅行の最中に、父親が倒れて入院、そのことを夢で察知した、というこの体験は、その時の私には、特別なものとして認識はされませんでした。
 
 その時も、それ以降も、「正夢って見るときあるんだなあ」くらいで、出来事として深く印象には残ったけれど、ただそれだけのことで、この後もそういう体験をするなんて、全く思ってもいませんでした。

 ですが、初バリから12年後、結婚してバリ島ウブドに住みだしてから、ほどなくしてまたそういう夢を見たのです。
 日本でも日々、雑多な夢は見ていましたが、そういう、起こるであろうことを予測するような夢は一度も見たことがなく(または、覚えていなかったのかもしれません)、夢見を重視するなんてこともない生活だったのに。

 さて、結婚の為にバリに来て、ここ、ウブドの主人の家に住むようになってほどなく、私は妊娠しました。
 まだはっきりと妊娠検査をしていなかったけど、あれ?もしかして?という位の頃に、また強烈な印象の夢を見たのです。

 夢で、自分で車を運転していました。助手席には主人が居り、私は何故か大泣きしながら車を運転しています。運転しながら「赤ちゃんが死んだ!赤ちゃんが死んだ!」と叫んでいます。
自分の嗚咽で飛び起きて、心臓もバクバクし、昂っている状態で、隣で寝ていた主人も吃驚して飛び起きたくらい。しかし、その後、妊娠も確定し、嬉しさが勝って舞い上がった日々を数日過ごしました。
 
 が、それから暫くして、微量の出血が始まり、不安で不安で、じっとしておけばいいのに、あっちの病院、こっちの病院、とウロウロしたあげく、出血の量が徐々に増え、11週頃に、とうとう流産してしまいました。バリに遊びに来てくれていた、小学校のころからの親友が帰国するその日、空港へ友人を送っていく途中、主人の運転する車の中で大出血が始まり、急遽サンラー病院という、バリ州都にある国立病院の救急に運び込まれて。
 陣痛に匹敵する痛みと吃驚するくらいの出血とともに、お腹の中の赤ちゃんだったであろう塊は、流れてしまいました。

 その後もしつこく、その流産について悲しんでいた私でしたが、やはり流産すべくして流産、身体が異物として、既に胎内で死んでいたその子を排出したのです。自分の体にも、そういう自然の能力が具わっているんだ、と初めて我が身体を認識した出来事でもありました。

 夢の中で悲しんでいたことは鮮明に覚えて居て、思えばあの夢を見たときに、今回の妊娠は駄目であろう、と覚悟していたような気もします。これも正夢というか予知夢には当たらないかもしれないけど、「車の中で赤ちゃん死んだ」というメタファーではなくそのものずばりの直喩的夢を見た、ということは、私の中では、「夢とは身体からの何らかの信号ではないだろうか」という確信になっているのです。

 そこに至るまでには、もう一度、夢を見るのですが、それはまたの機会に。

 

ウブド今昔~定宿とその界隈、二十年前のウブド~

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 ウブドの今昔、というテーマであれば、私にも外せない数軒のお店や出来事があります。

 初バリから8年ぶり、二回目のバリ島で、初めてウブドにステイしました。
一回目のバリ島旅行の後、大学3回生になってゼミが始まり、その時のゼミの担当だった恩師が、バックパックで旅行するのが好きな方で、その方が色々と教えてくれた宿の一つに、ステイしようとウブドにやってきたのでした。
 その宿は、この景色の奥にある、当時4部屋しかない、小さなロスメン(安宿)でした。当時はこの画像左手のような建物もなく、道すらもなく、宿に出入りするには田んぼのあぜ道を行くしかなかった頃です。その宿に、私は結局、結婚するまで5年の間、投宿していたのでした。
 ここには楽しい思いでしかありません。宿のスタッフも、同宿していた個性的すぎるゲストたちも、がめつい宿のボスも、すべてが心地よく、その当時知り合った主人と私のことを、当たり前のようにあたたかく見守ってくれ、バリ舞踊にはまって、馬鹿みたいにバリ人にバリ舞踊のことを喋りまくる私のことを、本当にやさしく相手してくれました。

 当時は、モンキーフォレスト通りからも、まだまだ田んぼが見渡せ、ハヌマン通りなどはほんとに村の裏道、といった風情でした。レストランや、ロスメンなどは当時から有りましたが、夜、日が落ちると真っ暗になり、その当時は毎晩のように停電もしていたし、夜のお出かけなどは、夜道の野犬が怖くて無理~!でした。もっとも、夜九時を過ぎて開いているお店などはほんの数軒でしたので、日本で毎晩のように飲み歩いていた日々とは無縁の、健康的なウブド滞在だったのです。

 が、当時からウブドに滞在する邦人の拠り所として、和食レストランの「影武者」さんが有り、滞在が長くなり、日本語の活字に飢えていた私は、よくそこに通っていました。そこには日本語の書籍や漫画などが置いてあったのです。名物店主「イトーさん」に、あれこれウブド情報を聞き、バリの芸能にはまっていったのも、この時期からでした。

 ウブドは、北はプリ・サレン・アグン(ウブド王宮)と、南はプラ・ダラム・パダンテガル(モンキーフォレスト・猿森のダラム寺院)を頂点とする楕円形の目ぬき通りを中心に、放射状にバックパッカーで賑わっていました。
 まだパサールは、ナイトマーケットが有った時代。目ぬき通りとはいえ、車はほとんど通らず、バイクだって一家に一台有るか無いか、という頃です。電気は一応引かれていましたが、しょっちゅう停電、電化製品もそんなに無かった。冷蔵庫が無い家が殆どでした。電話がある所も少なく、我々旅行者は、「WARTEL」と呼ばれる、「貸し電話屋さん」に行って、日本の家に電話をかけたものです。私がよく行っていたのは、パダンテガルのべべ・ブンギルの向かい側、今現在デルタ・マートになっているところに有った、WARTEL ワルテルでした。ずいぶん長いこと有ったように思いますが、携帯電話の普及とともに、姿を消しました。

 夕方になると、黄色い裸ランプがぽつぽつと灯りはじめ、ローカルの若者が道端に座り込んで、車座になって歌ったり、道行く女子に声をかけたり。ついでに「トランスポー?メイビートゥモロー?」と観光客に声をかけたり。
 みんなお金がない時代、一本のビールをちびちびと回し飲みしながら、ギターをつま弾きながら歌ったりして、今から思うと、そして日本から来た我々旅行者からすると、なんとも微笑ましいウブドの夜の若者たちでした。
 そういえば、今、道端に座り込んでる人なんて、物乞いの人々以外全く見ませんが、当時は何かというとすぐ道端に座り込んで道端会議が始まるのが、バリの生活の常でした。
 レストランやワルンで、ランプが灯りはじめると決まって停電で真っ暗、そうすると蝋燭やオイル・キャンドルが灯されて、それはそれで風情があってよかった。停電になった時も、電気が点いたときも、みんなでワ~!!っと大歓声をあげて。

 電話という、強制的火急的連絡手段が無いので、約束しても、まず時間などは有ってないようなもの。一日のうちでまあ、会えるであろう、程度に思っておかないと、それこそストレスが溜まる(笑)時間の感覚も、我々、腕時計組と、当時のバリ人の感覚は全く違うわけで、本当に「ジャム・カレッ ゴムの時間(伸び縮みする時間)」とはよく言ったものでした。

 でも、この、時間に縛られない、約束に縛られない、というのがどれくらい精神的に楽か。あの感覚を得られたことは、人生の中の大きな喜びでした。オンタイムで動けない人間は社会においては脱落者だ的な価値観の中で生きてきた私でしたが、オンタイムで動くことにあまり重きを置いていない社会、ひいては、全てのことに寛容な世界というものが有るのだ、と肌身で感じて、なんて呼吸がしやすい場所なんだろう!と、生きかえったような心地がしたものです。

バリ今昔~その2~いわゆる、バリ島で不思議体験。

 昨今のバリ島・ウブドに旅しに来られる方は、多くが、何かしらの”スピリチュアルな体験”というものを求めて来られます。時には、それはもう切実に、そういう事を希求して来られる。

 個人的な感想としては、そういうものは求めても出会えない、と思うのです。後から考えて、「そういえばあの時、そうだったなあ」という。

 二十歳そこそこだった私は、バリ島にそういうものを求めて旅行に行ったわけでは全然なく、バブル真っ最中に女子大生活を送っていたその当時の私は、そんな言葉も知らない、ただ新しい経験と刺激を求めて南のリゾート地に行ったおバカな女子大生でした(笑)

 ただ、どんなに享楽的にのほほんと過ごしてきたような私でも、その当時は当時なりの悩みを抱えており、一時の旅行で憂さを晴らす、という程度の認識はありました。

 バリで過ごして数日、カルティカplazaビーチホテルのヴィラの一室で、遊び疲れてうとうとと午睡を貪っていたあるひととき。

 夢を見ていました。

 夢の場所は、昼寝をしている、ここバリ島のホテルの敷地内の木の下。母親がバリまで来ていました。
 それは、私にとってはたとえ夢でも驚くべきことでした。母親は、家から出れなくなって10年以上経っており、家から出て遠くに行く、まして海外に出る、なんて考えられなかったからです。驚いた私は、「あれ、ママ、どうしたん?こんなとこまで来て?」と尋ねます。
「うん。ちょっとね。お父さんがね。」
「パパが?」
「うん。倒れたんよ、頭の病気で。」

と、ここで目覚めました。
それは、一緒に来ていた友人に起こされたからか、それとも母親の言葉に驚いたのか、よく覚えていません。

 そしてその直後、友人に日本の彼女の母親から電話がかかってきました。
友人が私を呼び、友人の母親に私の母親から電話があり、それを伝えたいから電話に出るように、と。

「お父さんが脳梗塞で入院した」

という言葉を聞いたとき、思わず笑ってしまいました。「正夢ってやつ?」

正夢というか、直前の予知夢というか虫の知らせというか。

 幸い、命に別状はないとのことで、途中で帰国することを選ばず、その後も旅行を続行したのですが、あの時のことは28年経ったいまでもはっきり覚えています。


 

バリ今昔~その1~観光の昔と今

 私が初めてバリ島に来たのは、1989年でした。
当時、まだ大学生。バリ島がインドネシア共和国の一州、ということさえ知らずに、海~♪マリンスポーツ~♪くらいの感覚で、友人と二人で名古屋の空港から、コンチネンタル航空、グアム経由で旅立ちました。
 
 初めて降り立ったバリの空港は、まあ、空港なんですけれども、ただの「飛行機の発着場」で、今のングラライ国際空港とは全く別物でした(場所は一緒)。まんまと頼んでもいないポーターにチップで20ドルも持っていかれ(笑)、外貨に慣れていなかった当時の私は、20ドルも渡してしまったということに、まる一日経ってから気づく始末。
 空港から出て初めてルピアに両替しましたが、その当時のレート、1000円=20,000ルピアだったと記憶。コカ・コーラのボトルが200ルピアだったと思います。←コレも観光客値段ですが。

 初のバリ島宿泊ホテルは、クタの「カルティカplazaビーチホテル」でした。
今現在、ディスカバリーモールのある、あのホテルです。プライベートビーチの有る、広大な敷地のホテルの中の、一棟のヴィラ。バリ情緒たっぷりの、今思うといいホテルでした。

 一歩外に出ると、舗装されていない部分もところどころに残る、埃っぽい一本道。夜は真っ暗で、見るもおぞましい、皮膚病姿の野犬(その時はそう思ったw)がぞろぞろと。道端には暗闇に白目と歯だけが白く浮かび上がる、黒い人影。
 ポピーズに行こうとして、間違って空港方面へ歩いて行ってしまった時も、道端には、目隠しされたバラックの建物が沢山有り、「スラム」という言葉が脳裏に浮かぶ、ちょっと危ない感じの一帯が。今思うと、あれはトゥバンあたり。あの頃もジャワからの出稼ぎ組が沢山住んでいたのですね。
 そろそろ空港かという所で、やっと道を間違えてたことに気づき、大きな交差点のポリボックスで警官に道を尋ねると、「全然逆だよ!」と言われ、真っ暗な道を、またとぼとぼ引き返す。少し歩いたところで、先ほどの警官が、「危ないから乗っていきなさい」と、パトカーでついて来ました。「どっちのほうが危ないんだろう」と、チラリと思ったのですが、ま、友人と二人だし、と、バリ島初日にしてパトカーに乗せられ、ポピーズまで(笑)
 警官は普通にいい人で、送ってくれてそのままパトロールに行きました(笑)

 その当時もクタと言えばサーファーのメッカ、ビーチを目指してくる旅行者で賑わっていましたが、今の混雑ぶりからは想像のつかないほどのんびりしたものでした。観光客は多かったし、お決まりの観光コース、といったものも有ったのですが、私たちは二人で途中からそのツアーから抜けて、勝手に自分たちで好きなところにいき、ガイドのマンクー氏からしこたま怒られましたが、めげずに好きなように旅行を続行していました。
 ガイドに連れていかれるお店もアクティビティも、いかにも契約店、という感じで満足できず、町で知り合った人が紹介してくれたバリ人の二人組に、あちこち連れて行って貰い、その時に初めてバリ島の結婚式と火葬式を見に行きました。
 初のバリ島で初めて火葬式、それはそれは衝撃的でした。遺体を公開火葬することが、ではなく、結婚式も葬式も、区別がつかないほど賑々しく、晴れやかで、楽しそうだったからです。今思うとあれはウブドか近郊の村だったように思うのですが、当時は山深い、田舎の、僻地、といった感じの村に連れて行かれたと思っていました。実際、その当時のウブドはそのような場所であったと思います。
 ちょっとクタから離れると、30分おきにしか車の姿を目にすることもなく、バイクも車も数が少ない。人々は陽気で優しく、はにかんでいて、こずるい奴らですら、なんだか愛嬌があって憎めない感じ。ローカルの人々に対する第一印象はそんな感じでした。お葬式と結婚式で会った村の人々は、それはもう、素朴で目がキラキラしていて、常に微笑んでいて、恥ずかしそうで、まさに世界ウルルン滞在記の世界。

 初バリの旅程は、二週間。シュノーケリングもパラセーリングも、観光地巡りもバロンダンス鑑賞も、クラブで夜遊びも、お姉ちゃんが居るお店でカラオケも、一通り満喫しきった、全く100%旅行者!のバリ滞在でした。
 
 この初バリは、その後のバリ島旅行と違って、お金に糸目をつけず(と言っても高級なホテルやレストランやアクティビティではなく)、その時にやりたいことを我慢せず、かつ安全と思われるほうにお金をかけていたので、唯一の旅行らしい旅行でした。ただ純粋に楽しく、バリ島大好き~♪で旅程を終え、日本に戻ったのでした。

 この初バリ滞在中に、ちょっと不思議な体験をしました。

 そのお話はこの次に。

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