FC2ブログ

プロフィール

ぷらさん亭

Author:ぷらさん亭
バリ島で娘一人、息子一人、旦那とその両親+犬、猫、庭のジャングルにいる様々な動植物と一緒に暮らしています。
獅子座・A型

UBUDで宿を始めました。
http://prasanti.web.fc2.com

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

ブロとも申請フォーム

QRコード

QRコード

見直しの時。

令和が明けて二か月、今年になってもう半分以上。
あっという間である。
日本の暦で生活していない私であるが、年のせいか月日の経つのが倍々で早くなっている。
光陰矢の如し。

宿を始めてから、実は今年で10周年である。気が付いたら10年だったというのでもなく、一昨年あたりから十周年はどうすっかなあなどと考えていた。

宿を始めた当初は乳飲み子を抱えてばったばたで必死の毎日だった。
今もあんまり変わってないけど、ひとつ大きく変わったのは子供の成長だ。
今年でダブル入学の中1と高1になる。
何をするにも見ていないとだめで、手を貸さないとだめで、放っておけなかったのに、この二か月ほどで突然、本当に急に成長してしまった。
特に娘は、吃驚するくらいに頼りになるようになった。突然(笑)

子供の世話はあるし、我が家は嫁が私一人なので、家の手伝いも色々とある。特にお供え物関係、お寺関係は、人数が多い一般のバリの家庭では分担できることが、私一人でこなさないといけないことが多い。そして宿の仕事。
もちろん一人では無理なので、スタッフを常に二人くらい雇って手伝ってもらっていた。
家の敷地の掃除だけでも大変である。バリの家は広い。
そしてお供え物作りから準備からお供え、お寺参り。
宿はまず一に清掃二に清掃である。これまた部屋を広く作りすぎて大変(笑)
お客様のハンドリング、予約業務、時間のかかるインターネットでの作業諸々。
子供たちは、おっぱいにぶら下がってた頃から、ひたすら学校やら行事やら塾やらの送り迎えの学校生活、その間に数えきれないくらいに熱出したりなんだかんだと病気。
思えば宿が始まった当初はこれらを全部ひとりでやっていた。
当然無理なんだが(笑)若かったんだろうなあ、やっちゃってたもんなあ。
満室が続いて行事が重なって、となるともうストレスMAX、もう無理だ、もう無理だ、というのの積み重ねでここまで来た。

スタッフも今まで何人来たっけなあ。うちのリピーター様には御贔屓にしてもらったコマンちゃん。彼女はほんとに得難いスタッフだったと今でも思う。まあでも、これもこういう縁。子供だった彼女が7年うちで働いて、結婚して子供ができて、今では幸せにやっているだろう。
その後は何人もが入れ代わり立ち代わり。いろんな子がいていろんなことがあった(していった・笑)。
人を使うのは本当に大変。これならしんどくても、最初のように一人でやった方がマシ・・・という思いが湧いてき始め、そうなると以前より体力も気力も落ちているのでお客様をお迎えすること自体を段々セーブするような方向になっていってしまい。そうこうしているうちにアグン山の噴火やら地震やらで、ここ2年ほどであっという間に業績悪化。
ここで踏ん張るのか止めてしまうのか。
ただひとつ、宿を始めたときに一人誓いを立てたことがございまして。
それは、どんなに細々とでも、ずっと「続ける」ということ。
めっちゃ時間たって行ってみたらやってなかった、という事がないようにしたい、と思って、どんな形であれPRASANTIは続けていこう、と。
そういえば初めのころに思ったんだよなあ。

しかし今の経済的状況から考えて、複数のスタッフを抱えるのも無理。よくやってくれる女性一人だけ残して、スタッフを減らした。前のように私がやればいいんだ。娘ももう手がかからないし。
と、落ち込む気分を無理やり鼓舞して、娘にも経済状況などを説明したところ。
俄然娘が張り切りだして、まずウェブ関連の整理。写真があかん!!!と言われ、娘監修のもと新たに客室の写真撮り、あわせて、積年の課題だったウェブサイトの作り替え、そしてインスタグラムのPRASANTIのページを娘が作成。さすがインスタ世代である。ちゃちゃーっと。

これでお客様増えたらいいねーーーー。私の長年の経験では、ウェブでの露出を工夫して更新すると絶対に結果に反映される。

と、張り切っていたら、残したスタッフがお母さんの急な入院で、付き添いのために仕事に来れないという!!!!
まじかーーートゥンパッもあるし、バレバンジャールのオダランも、その準備手伝いも、新月のお供え物とお寺参りもあるし、それよりなにより、やっぱりお客様増えてきて、忙しくなってきたのに・・・がーーーーん。
気力のほうが弱りそうだったが、ここでもまた娘が!「手伝うから!」と頼もしいではないか。
ちょうど、子供たちはダブル入試、入学で、願書提出も終わって休み中だったからよかった。
この際、娘に色々覚えてもらって、宿のハンドリング出来るようになってもらおう。という事で、客室掃除を毎日二人でやっている。
もちろん、お祖母ちゃん・ダドンの手伝いもして、チャナン作りやお供え物準備も。
ああ娘を産んどいてよかった!!!
息子も、この休み中に自転車に乗れるようになり(やっと)、娘に色々こき使われて朝のお供え物くらいはできるようになった(笑)。

いつの間にか、面倒を見る対象だった子供たちが立派に家族のメンバーとして活躍するようになったのである。

物事はかわりゆく。諸行無常。サムサーラ。
こういういい具合に変化することと悪い方向に変化することを繰り返している訳で、いちいちそれに捉われることはない。なるようになるのだから。

ということで、十周年の今年に、ある意味ふさわしい状況のPRASANTIです。
スポンサーサイト



バリで子育て、バイク事情。

2018年の6月11日、もうすっかり乾季に入っていいお天気続き。空気もカラッとしてきたなあ~と思っていた今日この頃なのに。
昨夜から怒涛の雨。
クニンガンも明けて、子供たちは、二週間近くぶりの登校日の今日、朝も雨。雨の中のバイク送迎は大変である。
ほんとに、雨季に戻ったかのような大雨が断続的に降り続く。

 バリで子育てをしていて、日本と違うことの一つに、子供たちの送迎、がある。もともと学校(保育園・幼稚園)の数が少ないのもあり、結構離れた場所まで通園・通学している子が多い。坂道が多く、歩道のない危険な車道しかないので、歩いて登校できるシチュエーションの子供が少ないのもある。なので、子供たちが自分でバイク通学するようになるまで、親が送迎するのがこちらでは標準。
加えて、公共の交通機関が無い(バスや電車がない)ので、なおさら親の送迎必須である。

 車で出ると渋滞で余計時間がかかることもあり、うちも、雨が降ろうと風が吹こうと、殆どバイク送迎である。子供二人を前と後ろに乗せて、3人乗り。
 旅行者のころはバイクの運転もできなかったので、まさか今のようにバイクで3人乗り、時には4人乗りで子供たちを学校に送迎するようになるなんて、思ってもいなかった。

 今でも、怖い。出来れば何の運転もしたくない、と思うくらい、年々、バリ島の交通事情は酷くなっており、事故も多いし、路面事情もひどい所が多い。それは、気候的な問題も有るし、インフラの問題も有る。とにかく、いつも冷や冷やドキドキしながらバイクに乗っている。娘を乗せてて二度、転倒したこともある。息子の時は、坂道で後ろから車に追突されて転けたことも。車にサンダル履きの足を「踏まれた」こともあるし、子供が死亡した悲惨な交通事故を目の当たりにしたことも・・・・・。
 そんでもって、いずれの場合も、誰も解決してくれないし責任も取ってくれない。交通事故は遭っちゃったら遭い損なのである。

 とはいえ、歩いて通学させるのも危険な道のりなので、結局、バイクで送迎をし続けるのである。下の子が中学出るまで、最低14年間・・・( ;∀;)

 バリの子育てには、バイクが必須なのであるが、赤ちゃんをあやす道具としても、バイクはよく使われるアイテムである。昔はまだ、ベビーカーを使っている人は殆どおらず、寝ぐずる赤子をあやす仕事を任されたお父さんたちは、赤子や幼子を抱いて、バイクでゆーっくり走りながら、子供たちを寝かしつけるのだ。片手で赤子を抱き、片手だけでハンドルを握り、ヘルメットも被らず被せず、バイクで走る男ども・・・今でも、見かけるとお尻がもぞもぞするくらい、怖い。
 しかし、うちの子らもそれで育ってきた。そして、また、子供って、バイクで風に当たりながら走ると、嘘みたいにすぐ寝るんである(;'∀')( ;∀;)

34963721_1429502153816768_6627590719089410048_n.jpg 
これくらいの頃は、まだまだ絶賛バイクで居眠りの年頃だ(笑)

 昔は、みんなノーヘルでバイクに乗っていた。ヘルメットを持っていない人のほうが多かった。持ってる人に借りるのが当たり前で、貸したら最後、二度と戻ってこないのも当たり前だった(笑)
今は、メット着用義務を守っていないと罰金だし、みんなちゃんと被っているが、今でも盛装してお寺に行く時は、ヘルメットを被らない。男性はウダンという被り物を被っているし、女性は髪を結いあげていて、被れないことが多いから。

 そんなこんなで、子供たちがもう、バイクの前に収まらないサイズになってきて、後ろに乗せて走っていると、「寝てるんじゃないか」と気になって仕方がないのだ。前に乗せてると、首がガクッとなるのが見えるので、「寝たらあかーん!」と注意できるが、後ろだと見えない。
今、娘、中3、息子、小6になろうとするが、結構な頻度でバイクで居眠りしている気がする。
あまりに子供が静かだと、居眠りして、途中でぽろんと落ちてるんじゃないかと思う。
「寝るなー!寝たら死ぬぞ!」と日本語で喚きながらバイクで走っている母なのである。

記事のカテゴリー整理をしました。

34985149_1428596137240703_3165926389379497984_n.jpg

夕暮れのタナロット寺院です。

2018年は、5月末と12月26日にガルンガンが巡ってきます。
今は一回目のガルンガン、クニンガンが終わり、島中がちょっとほっと一息ついているところです。
今年は、ちょっとブログの更新をマメにしようと思っていたのに、あっという間に半分過ぎてしまいました(;'∀')
手始めに、カテゴリーの整理をしました。未分類を整理し、もうちょっと探しやすいようにしてみました。ゆくゆくはブログとウェブサイトを一緒にして、リニューアル一新しようと思っております!
読み返してみると、いろいろと手探りしながら、バリ島で暮らし、子育てしてきたんだなあ、と、感慨深くなりました(笑)
結婚と同時にこのプネスタナンという集落の主人の家に、舅姑と主人の叔母と暮らし始めて17年になります。二人の子供を授かり、小さな宿を始め、当初は3年に一度くらいしか帰国もできず、すったもんだで子育てしてきた今まででした。
年とともに、環境も状況も考え方も受け止め方も、ずいぶん変わったなあと思います。
バリが大好きだ!という当初の気持ちを忘れてしまうくらい、つらい~つらい~帰りたい~と泣いたことも数知れず。

一昨年から、割と頻繁にうるわしの国日本に帰国するようになりました。
いやあ、離れてみて思うのは、月並みですが日本て素晴らしい。ということです。
移住したいと思うくらい(笑)
しかし、今の私には、やはりもう、日本で暮らしていく、というビジョンが全くしっくり来ず、やはりこの緑豊かなバロンとランダの島バリ島の、ウブドという場所で、骨となり塵となるまで過ごしていくんだなあと、そう思うのです。
ま、そういいつつ、しれっと日本に戻っているかもしれませんが(笑)。

バリ島、という観光島に暮らして日々感じるのは、バリ島観光にも流行り廃りがあり、それは滞在の仕方全般に影響を及ぼし、末端でお客様の滞在をサポートしている我々は、何をどう、提供していけるのか、という事です。
住人、島民として暮らしている私たちが、観光で何かを求めてやってくる人達に、何を提案できるのか。
流行り廃りに乗るもよし、一本貫き通すものがあるのもよし。

PRSANTIの今後を考えたときに、私達家族にとって、この愛らしい小さな楽園を、どのようにお客様に提案していくのか、という事を最近特に考えるようになりました。

まだまだ考え中、模索中ですが・・・

3階を客室に、と思って準備していたのですが、やはりギャザリングスペース的な場所に置いておこうか、と考え直しています。
ちょっと場所かして~、と、気軽にいろいろ使える場所があるといいな。なにか共有しあえることを、それがアンテナに引っかかった人が寄り集まってちょっとしたことをやるスペース、そういう場所の提供を、結局は自分はやりたいのだな、と思うのです。

というわけで、私のアンテナに引っかかった、「ちょっとやってみたいこと」のイベントを、ちょこちょことやっていこうと思っております。

今月中に、ライブをまたやろうという話が出ており。
決まり次第また告知させていただきます。

ブログも、いろんな話題で続けて更新していくつもりですので、よろしくお願いいたします<(_ _)>




季節の分け目にて祈る。

今日は2017年の、春分ですね。

今日を起点に、また新たな何かが始まる、そんな分け目の日です。

バリ島では、今月28日のNyepi ニュピを前に、島じゅうが浄化の準備に追われ、またその1週間後に迫るガルンガンの準備も佳境に入る、そんな慌ただしい日々であります。

 さて、今年に入ってから、身の回りで訃報が相次ぎ、年が明けてまだ3カ月だというのに、お別ればかりでちょっと辛い日々です。

 年明け早々に、うちの宿のお客様でもあった方が、亡くなられたと知らせが入り、驚きでしばらくリアクションが取れませんでした。

 いつも明るくて、よく笑い、よく食べて、よく飲んで、楽しい方でした。びっくりするくらいバティックが上手で、宿のテラスでバティックにろう付けされていたのを、鮮明に覚えています。その横でシロが寝そべって、夕方の光線を浴びたその情景は、なんだか1枚の絵のようでした。

 わずか2年足らず前まで、一緒に飲んで、がはは、と笑っていたのに。
もう、あの笑顔が見れず、あの笑い声が聞けないのかと思うと、残念で、寂しくて、仕方ありません。
 心からご冥福を祈るとともに、今は身軽な身となって、好きだったバリの上空を旋回されているのではないのかなぁ、と、好きな所に好きなだけ飛んで行けているといいなぁ、と、そんな事を思っております。

 ご縁があって知り合う事が出来たお客様のご不幸を聞くのは、本当に辛いですが、残された私たちは、これからも、生きてゆかねばなりません。

Cさん、本当にどうも有難うございました。

17361094_1041323655967955_1501588016_n.jpg

Sebuah cerita dongeng. 夢と思い出と河童の霊水。


 バリに、スピリチュアルなものを求めてくる人は多いと思う。
今、バリを検索するキーワードで、西洋人、日本人を問わず、最も多いのは、ヒーリング、スピリチュアル、ヨガ、マッサージ、などではないだろうか。

 バリ島は実際に、バリアンやドゥクンといった、目に見えない世界と行き来して、治療や儀式をとり行う人たちが活躍している場所である。
 五感以外の感覚、第六感、というようなものが発達している人や、敏感な人が、多くバリに惹かれて来る。

 私自身は、全くの凡人・俗人であるが、バリに住みだしてから、「目に見えない世界」の存在を感じることが多い。
信じる信じないの問題ではなく、我々人間以外の世界の存在感が強くて、はっきりと「ある」と感じられるのだ。もちろんそこには、動物や植物の世界を含む。

 バリに住んでいると、心身の不調を感じても、医者に行こう、とあまり思わない。
医療面での技術的不安、が大きい理由である。
 そうなると、自力でなんとかするしかない。多くのバリ人達のように。
ひたすらじっと寝て過ごす。薬草を煎じて飲む。オイルでマッサージなどをする。バリアンに行く。などなど。

 私もバリに住むようになってからヨガを始め、メディテーションなども時々し、子供のために出来る範囲で自然療法的なものを勉強し、徐々にそういうものに興味を持つようになった。 
 稀に、身近な人からいい、と聞いたバリアンやお坊さんやドゥクンに行く事も有る。
 ただ、元々懐疑的な性格なので、全面的に何かに(誰かに)身を委ねる、ということは出来ない。最終的には自分で何とかするしかない、と思っている。

 トラブルが有った時、何が問題なのか、自分でよく分かっていないことが多く、なんとなく良くなったし、なんとなく治ったし、で済ませて、また同じことを繰り返したりする。
 それこそが人間なのだ、とも思うが、いいかげんこの「パターン」から抜け出したいな、という気もする。

 この10年以上、ヨガやら、なんとかヒーリングやら、マッサージやら、占いやらで、何度か同じ問題を指摘された事があり、もうそろそろ、そこに正面から取り組む、というか、立ち向かうべきなんじゃないか、という気がしている。

 だがしかし、何に取り組めばいいのかが分からない(笑)

 自分自身の身体、そして心の声を、耳を澄まして聞くしかないのである。
そのために、色んなところからアプローチを試みている最中で、この、ひとつのおとぎ話もその一環である。
誰に読ませるわけでもなく、赴くままに書いているので、駄文・愚文、お許しください。

 **********

 バリに住みだしてから、あれはいつ頃からか、昔住んでいた家の夢を見る。
はっきりとした夢ではない。途中でその家も全く違う建物に変わったり、曖昧な夢だ。
 でも、結構な頻度で、朝目覚めて、
 「あ、また前に住んでたとこの夢見たな」と思う。

 時々、村の道をてくてく歩いていたり。時に1人で、時に誰かと。

 幼稚園から高校を卒業するまで、田舎の小さい集落に、古い一軒家を借りて住んでいた。
両親が、都会の生活に疲れて「田舎暮らし」に憧れたクチ、だったのか、単に仕事の関係か。
私の喘息が酷かったから、と聞いた気もする。
 ともかく、その集落での14年間は、私の記憶の奥の方に有り、あまり思い出すことも無かったのだが。
 最近、頻繁に夢に見るので、そーいや、あの家の裏山によく遊びに行ったよな、と、徐々に色々思い出してきた。
 そうなるとあそこは一体、どんな所だったのだろう、と、気になって。
 というのも、家のすぐ裏の山は、日本でも有数の古墳群の一つで、歴史的には何やら謂れの有りそうな場所であった。
 小さな山だったが、登ってすぐのところに、小さな池、公園、お寺、お稲荷さんがあった。
 そして、最近まですっかり忘れていたのだが、小さな滝があって、地元の人がよく水を汲みに来ていた。
 そこでしょっちゅう遊んでいた子供だった私も、しょっちゅう飲んでいた水だ。
 なんていう滝だったっけ?
 名前あったっけ?
気になって調べたら、出てきた。
今でも多くの人が、湧き水を求めて来ているらしい。
「憑夷の滝」
ふういのたき。
そんな大層な名前だった。
憑夷、というのは、中国の神話、「河伯」の、人間だった時の名前。日本には「河童」として伝わった。
言い伝えでは、弘法大師が行脚途中で掘った霊泉だという。

肉体と心を和解させる水
悪霊を追い払う水

だという。
人間、生まれ育った場所の水が一番の薬だという話を聞いたことがあるが、
私も末期の水はここの水を求めるのだろうか。
夏でもヒンヤリした水だったと記憶。
ここの水の味というか匂いは、今思うとお線香の香りだった。

11144936_663762353724089_2544833482386685711_n.jpg

 この、憑夷の滝のある山は、「大日山」という。
5世紀〜7世紀にかけて作られた、日本一の規模の古墳群の一角を成す山である。
標高141メートルとあるので、子供でも山越え出来る。
私も子供の頃から、山道が好きで、よく父親と家の裏から登って、反対側まで行ったものだ。 

 滝の横のお堂は、「大日堂」という。普段は住職さんも居ない、小さな小さなお堂だ。
だが、管理は行き届いており、年に一度はお祭りがあり、「餅撒き」などが行われ、子供の私にはそれがたまらなく楽しみであった。
 大日如来をご本尊とし、滝の謂れも弘法大師に因んでいる。私が住んでいた場所には弘法大師にちなんだ多くの故事が残っている。
 山の中腹程に、半ば崩れたお寺跡があり、そこが元々の大日堂だったと思われるが、子供心に、怖い半面、ずっと興味があったのを覚えている。実際にはその場所へは2度ほど行っただけである。鍵はかかっていたが、堂の中には、色々安置されていた。

 全くその14年間と被って、一匹の犬を飼っていた。
スピッツの交じった雑種であったが、その犬がよく夜に脱走していた。
一度、一晩中家に戻って来ず、裏の山から鳴き声だけが聞こえており、あの山の中のボロ寺で、お化けに捕まっている飼い犬を想像して非常に怖かったのを覚えている。
 翌日、山に入った猟師さん(その頃は普通に居たのである。)が、綱を切ってくれたとみえ、戻ってきた。多分、木の根っこに綱が巻き付いて、身動き取れなかったのであろう。

 このように、物心ついた頃から思春期まで、大日如来と空海と、霊水と宗教行事に囲まれて過ごしていた私である。
 後々、マントラやインドの神話に興味を持つようになる萌芽は、この頃から芽生えていたのだろうか。

11200819_663874483712876_9154271125227405318_n.jpg

 私達の遊び場は、主にこの公園であった。
大日堂の下、池の横である。
 当時、今から40年〜30年近く前から、下の画像の様な感じであった。
今なら事件現場になりそうな公園であるが、当時はひとけが無くても、本当に田舎のひとけの無さであって、子供一人で居たとしても、全く怖くはなかった。

 農作業をしている人か、お堂やお稲荷さんの社の手入れをしているおばさんかおじさんが時折居るだけ。

 これも今、唐突に思い出したが、山の入り口に小さな家があって、そう言えばお婆さんが独りで住んでいた。
喋ったことは無かったように思うが、ひっそりと、在るようなないような、でも確かにあの夜は真っ暗になってしまう場所で、お婆さんは独りで住んでいた。

 写真ではビニールシートが見えるが、当時から桜の木が沢山有り、子供の頃、「桜の木の下には死体が埋まっている」という何かで読んだ一文を思い出しては、「大日山には一杯死体が埋まってるんやで〜」と子供同士で他愛なく怖がっていたものだ。
 あそこが古墳であったことを考えると、あれはあながち嘘ではない。

 近所の友だちや、学校の友だち、そして一人で、私はよく公園に行った。一本、登りやすい桜の木があって、「私の木」と勝手に決めて、そこに登っては、遠くに見えるお城を眺めたものだ。

 身体が弱くてしょっちゅう学校を休んでいた私にとって、あの公園は世界の大きな部分を占めていた。
「肉体と心を和解させる水」
を、そうとは知らず飲んでいた私は、長じるにつれて徐々に丈夫になっていった。

 この村に住んでいた14年間は、子供の幸福な時代でもあったが、閉塞感や悲しみや、不安が詰まった14年でもあった。
子供の本能的な部分で、そういうネガティブなものをシャットアウトすべく、山で遊んだり、家の前の田圃の蓮華畑で、蓮華草でベッドを作って遊んだり、歩いていける限りの小さい冒険したり。そして、そういう楽しかった事しか覚えていないのだろうと思う。

 村から外に通じる道や、小学校への通学路、勿論、今行ってもそらで行けるであろうが、何故か夢の中では曖昧に入り組んでいて、何処かへ向かっているのに何処にも通じていない。
 家にしたって、
「あれ?こんなとこに階段あったっけ?(当時住んでいた家は平屋の日本家屋)、こんな部屋あったっけ?」
と、どんどん変容していく。自分の家なのに。
 そもそも、何故、あまりよく覚えていないあの頃の事を、よく夢に見るのだろう。

11210507_663917030375288_2517107269659639241_n.jpg


11165291_664197300347261_4504631029226939120_n.jpg

 こんな、今では子供一人で絶対に行かせないであろう、人気のない、山の中の小さな公園。錆びたブランコ。
この写真がいつ撮られたか知らないが、幼かった私が乗っていたブランコに間違いない。

 山は秘密基地だった。友人や一人で、そういった秘密の場所を沢山持っていて、遊び疲れたら、滝のお水を飲んで、顔を洗った。
 一人っ子だったので、家でも家族や友人が居る時以外、常に一人であったが、それでもさらに一人になりたい時は、公園の桜の木によく登ったものだ。

 と、つらつら書いているが、実際は今しがた、思い出した事ばかりである。
こんなに、子供時代の事を忘れているか?というくらい、あまりこの村に住んでいた時の事を覚えていないのだ。
 思い出せるのだから、忘れきっている、というのではないのだが、つまり、私はあまり思い出したくないのかな。

 もしかしたら、この頃の、人格形成期の頃に、鍵が有るのかな。

 この時に出来た、ネガティブな要素が、現在起こる、様々な病気やトラブルに何らかの影響を与えているのかな。

 親との関係、親戚との関係、学校のお友達との関係、近所の子供達との関係。良かったにしろ悪かったにしろ、みんな多かれ少なかれ経てきて、それがあって今現在の自分がある。
 あるいは、
 この牧歌的な、日本昔話的な田舎の村の暮らしは、子供には楽しかったが、母親にとってはそうではなかったようで、この場所が私には鬼門だ、的な事を、母親がよく言っていたのだが、その事が全体的に、子供だった私に重くのしかかっていたのか。
 母親の容体で子供が左右されるというのは、それはもちろん影響が大きいであろう。
私にとって母親は裏山と同じく世界の大半を占めていたので、子供時代の不安感と言うのは、自分のことと母親の事、そこに由来していた、というのは、今でも思う。
 しかし、母の問題=父の問題、である。

 それとも、もっと前か。もっと遡ってなにか見れるのかな。

 私にとって「前世」とは、あるとしたら、見知らぬ誰かではなくご先祖様の誰か、である。その辺は、必ず子孫の誰かに生まれ変わる、というバリ人の影響を受けているのだが。
 過去生のカルマがどうのこうの、という話になるとサッパリ訳が分からないが、ご先祖というのは興味が有る。

 私の名字は、居ないことはないが、少々珍しい名字で、だから先祖を辿りやすい。調べたところ、瀬戸内海で水運業を営んでいた一族で、「村上水軍」と切っても切れない、ようは「海賊」の一門であったらしい。
同じように、自分のルーツを訪ねておられる、会ったことのない同じ名字の一門の方のブログで知った、北原宋積と言う人の詩に感銘を受ける。

人間ピラミッド
   
   気がつくと
   父を 母を ふんでいた
   
   父も母も それぞれ
   祖父を 祖母を ふんでいた

   祖父母もまた
   そのふた親をふみ
   むかしのひとびとをふみ
         
   いのちの過去から未来へと
   時のながれに きずかれていく・・・  
   人間ピラミッド

   そびえたつ そのいただきに
   ぼくは たち
   まだいない 子に 孫に
   未来のいのちに ふまれていた

 生きて行くという事は、まさにこの詩の通りのことで、その種が時々、元々の地ではなく、ぴょんと遠くへ飛んでいく事も有り、海賊の血筋を汲む私が、黒潮の流れに乗り、はるかかなたのバリ島に流れ着き、瀬戸内の血を遠くバリ島で細く繋いでいく、と考えるのは、なんとも愉快である。今は、私がピラミッドの頂点ではなく、私の子供達が人間ピラミッドの頂点である。

 もう少し詳しく調べて行くと、ご先祖の事は驚くほどくっきりと分かってきた。うちの曾祖父が、どの時点で先祖の地を飛び出したのかは定かでないが、現在、一族の元々の土地で、同じ名字の方が、「熊野神社」を管理しておられる。

熊野神社
応永9年(1402)鳴滝山城の守神として鎮座されたと伝えられ、熊野三社神のほか、伊邪那美命が祀られている。
また同社に、僧覚峰が筑紫から紀州大峰山に神命をおび赴く途次、この沖合で船が動かなくなり、神のお告げをうけ、山上に勧請したといわれている。 


鳴滝城跡
元享年中(1321-1323)○○次政が築城、広義、広俊、恒躬と
4代にわたって受け継がれたが、100年後の応永30年(1423)、美の郷に
大平山城を構える、木須経兼の奇襲にあい、恒躬は久山田の守武谷で戦死し、
夫人鈴御前(木ノ庄木梨杉原氏の娘)も栗原門田まで逃げたが殺され、
その子明光は幸い落ちのび、因島の村上氏を頼って城の奪回を図るが、
◯◯◯らす、三原市仏通寺に◯つて◯◯と号した。
しかし、群山豪族の拠点となった山◯の離合集散は激しく、間もなく
○○一族は鳴滝山に住みついた。

 小さいながらも城主であり、海賊であり、そして離散の運命を辿った一族の、その端っこに私は居て、南の小さな島に住んでいる。

 面白いなとは思うが、やはりそれと今の私の生活になんらかの関係があるようには思えない。
ただ、「名字」は父方のものであり、バリと同じく、日本でも「ご先祖様」とは父方の方を指す。

果たして
原因を求めるべきだろうか?

過去をどこまでもさかのぼって、そこに因子を探し出して、

 それで?

そこでいつも立ち止まってしまう。

だからどうなるのか?

「そこを解放してあげると、これからの人生、うまくいきますよ」
というのは、ヒーリングのセラピーの際によく言われる言葉だ。

 しかし、痛みを抱えたまま、人はどんどん成長して、痛みに慣れて、そしてそのまま歩いて行く。今までそれでやってきたのだ。今さらその痛みを取ったところで、どうなんだ?

 というのが今までの私だった。

 今でもその考えは変わっていない。色々有ったが、こうして死なずにバリ島で、そこそこ元気で暮らしている。それでいいんじゃないのか、と。

 ただ、心の奥底で、何かがチクチクと、覚醒を促すというか、なんというか、そういう感覚がずっとある。

 先日、久しぶりに、本当に満足のいくマッサージをしてくれたセラピストに出会えたのだが、その時に奥様が、「カードをひいてみませんか」と言ってくれ、そして自分が自分で引いたカードが、「決心する」というカードであった。

 決断を下すだけ、そのあとは色んな流れがサポートしてくれるでしょう。

 決断しなきゃいけないんだろうなぁ、ということは、確かにあって、ぼんやりと見えている。そこから目を逸らしている、といえば言えなくもない。

 こういう風に、夢に出てくるからと、過去を振り返って、先延ばしにしているだけなのかもしれない。


 でも、決断する前に、もう一度、「大日山」に行かねばならない。そして、おとぎ話の先に何があるのか、行って確認したい、と思うのだ。
 私が夢で見る道は、本当にあの通りなのか。グーグルで見る限り、住んでいた家はもう、跡形もなかった。
そして、あの、
「肉体と心を和解させる水」をもう一度飲まなければ、と思う。



| ホーム |


 BLOG TOP  » NEXT PAGE